藍より青い。

思ったことをつらつらと書いていきます。

夜の声

 静寂と言う言葉は、真夜中を表すのにふさわしい言葉だと思う。昼間を覆っていた騒がしさも明るさも跡形もなく消え去り、黒いインクを垂らして全てを覆い隠してしまったようにひっそりととしている。私以外誰もいなくなってしまったみたいだ、とありきたりなことを考えてしまうほどに、静寂だ。
 そんな真夜中が好きだな、と思う。意識まで真夜中に溶けてしまうまでの間、気怠さを抱えながらぼんやりする時間が好きだった。何を考えるわけでもないけど、頭を空っぽにするわけでもない、頭の中も黒いインクがたっぷりとつめられたように濃密な静けさに満ちている。そんな時間が毎日のどの時間よりも安心できた。そうしている間だけは、息ができた。そうしている間だけは、生きていいと思えた。
 だけど真夜中は、いつも静寂なわけじゃない。今日はどうやら静寂ではないようだ。
 私の周囲は今日も静けさに満ちている。けれど私は、私の頭の中は一向に静まる気配を見せない。頭の中を声が、言葉が駆け巡る。

 私なんか要らない。
 私なんかいない方が良い。
 私なんか誰からも大事にされないし、何の価値もないんだから。
 
 止まらない。これらの声は、言葉は、別に誰かが私に対して言ったわけではない。私は誰からもこんな言葉を投げかけられてはいない。私ではない誰かが私の頭の中で喋っているわけでもない。紛れもない私が、私に対する呪いの言葉を絶えることなく生み出しているのだ。
 こんな事には意味がないことは、私が誰よりも良く理解している。けれど止められないのだ。水の中にストローで息を吹き込んだみたいに、言葉がぼこぼことあふれ出てくる。自分ではどうすることもできない。
 頭の中でそれが始まった時の有効な対処法が一つだけある。この方法は、本を読んでも音楽を聴いても収まらないときにしか使わないと決めている方法。
 部屋の電気を付け、ベッドから立ち上がると、勉強机の引き出しに仕舞ってある物を取り出す。つまみを上に上げていくと、カチカチと音を立てながら鈍い銀色の刃が顔を出した。私はそれを、自分の腕に押し当てる。
 
 カッターナイフで自分の身体を初めて切ったのは半年ほど前のことだった。その夜も頭の中でずっと声がして、何をやっても声は収まらなくて、布団の中でひっそり泣いていた。黒い闇が自分にのしかかっているみたいで、押しつぶされそうになっていたとき、ふと、何年も前に読んだ小説を思い出した。
 その小説は、両親から虐待を受けている女の子が主人公だった。助けてくれる大人も友人もいない女の子は、地獄のような毎日を乗り切るためにカッターナイフに手を伸ばす。手首をカッターナイフですっと切ると、ぷつっと切れた皮膚の間から鮮やかな赤い血があふれ出す。そうするとすうっと気持ちが静まって、女の子は明るい気持ちで日常に戻る。
 その本を読んだときは、手首を切って気持ちが静まるというのがぴんとこなかった。痛い思いをして明るい気持ちになれるわけがない。
 もうタイトルも思い出せない小説のワンシーンが、とても甘い印象を伴って鮮明に思い出された。自分の身体を切れば楽になれる。何の根拠もないけれどそんな予感がした。
手首を切るのはさすがに怖かったし、傷が残ったらリストカットしましたって宣言しているようなものだなと思ったので、指先を試しに切ってみることにした。カッターナイフを指に押し当てて引っ張ってみてもなかなか切れないものだなと冷静に考えたことを覚えている。何度も試してやっと一センチにも満たない傷を付けることに成功し、指先から、ぷっくりと赤い血が顔をのぞかせた。私は動くこともできずにその血を見つめていた。死にたい気持ちは変わらず背後にあったけれど、私の中でぱんぱんに膨らんでいた何かが傷口から血と一緒に流れ出ていくような気がした。風船の空気が抜けてしぼんでいくみたい、と思った。その夜は久しぶりによく眠れた。

それ以来、私は時々こうしてカッターナイフで自分の身体に傷を付けている。
こんなこと、他人には言えないとわかっている。こんな風に自分の身体を傷つけることは良くないことだと言うことも痛いほどに理解している。けれど同時に、自分の中にある辛さとか、やるせなさとか、死にたい気持ちはいくら言葉を尽くしても誰にも理解してもらえないし誰とも分かち合うことができないという確信もあった。確信と言うよりも諦めに近いかも知れない。
それに実際、自分の身体を切った夜は、よく眠れる。翌日学校に行っても屈託なく笑える。自分の中の死にたさから上手く目をそらすことができているように感じる。友人からも最近機嫌良いね、とか、明るくなったねと言われることが増えた。
一方で、夜、頭の中がうるさくなることが増えた。昼間人前で楽に過ごせるようになるのに反比例するように、夜はうるささを増していった。はじめは指先にほんの小さな傷を付けるだけだったのが、太ももや二の腕に跡が残るような傷を付けるようになっていった。思ったよりも深く切ってしまい、血がたくさん出て死ぬのかな、と慌てることもあった。やめた方が良いんだろうなと言う思いはあった。でもやめられなかった。やめられない辛さで、また腕を切った。
昨日と同じように、一昨日と同じように、カッターナイフを腕に当てる。それだけで心臓がどきどきする。カッターナイフを握る手に力を込める。
―――これで楽になれるんだ。
   私にはもう、これしかないんだ。

その時、ベッドの上のスマートフォンが鳴り響いた。着信音というのは突然なるのが当たり前だが、自分の腕を切ることに集中していた分、飛び上がるほど驚いてしまった。
何が起きたのかすぐに理解できず、しばらく固まってしまったが、スマートフォンは鳴り止まない。アプリの通知やメールではないということだ。カッターナイフを机に置き、スマートフォンを拾い上げる。
スマートフォンの画面に表示されていたのは、同じクラスの女の子の名前だった。

彼女とは特段仲が良いわけではない。学校でいつも一緒にいる友人はお互い他にいるし、話さないことの方が多い。彼女は休み時間によく本を読んでおり、物静かな子という印象があった。
彼女と初めて話したのは、なんとなく家に帰りたくなくて、でも友人と騒ぐ気にもなれない日の夕方だった。私は人の少ない近所の河原をぶらぶら歩いていた。燃えそうに赤い夕日が川面まで赤く染めながら西の空に沈んでいく様子を眺めていたら、なぜか涙が出そうになって、こらえようと思って口を開けたら、「きれい……」と声が漏れてしまった。
確かに私の口から声が出たはずなのに、私の後方からも声が聞こえてきた。振り向くと、彼女がいて、目が合った。
「ここの夕日、きれいだよね」
そう言うと彼女は私の隣まで近づいてきた。
「私は初めて来たから……」
「そうなの?私はね、落ち込むことがあると、ここに来るんだ。」
物静かな彼女が屈託なく話しかけてきたことにも、落ち込むことが彼女にもあるという、考えてみれば至極当然のことに私は驚いてしまった。
 彼女とは、その後河原でとりとめのないことを話した。私は、今日はなんとなく憂鬱で家に帰る気分にならないことを話した。彼女は茶化すでもなく、安易な共感を示すでもなく、ただ話を聞いてくれた。彼女は私に落ち込んでいる理由を話してくれた。私は「わかるよ」というのも、アドバイスをするのも違う気がして、ただうなずいて聞いていた。彼女と話している間は、楽に息ができた。
 私はその後、あの河原には行かなかった。行けば彼女と話ができるかも知れなかったが、彼女にくだらない愚痴を聞かせてしまいそうだった。私の汚い部分を見せてしまいそうだった。それだけはしたくなかった。

 「……もしもし」
 「もしもし?ごめん、こんな時間に。もしかして起こしちゃった?」
 こんな真夜中に電話をかけてくるなんて何かあったのだろうかと、声に怪訝さが滲んでしまった私とは対照的に、彼女の声は静かな明るさに満ちていた。
 「ううん、起きてたよ。電話したことなかったから驚いちゃって。何かようだった?」
 「今日さ、流星群が観られるってテレビで言ってたの、教えてあげようと思ってたのにすっかり忘れちゃってて。始まるの、もうすぐみたいだよ」
 そういえば、朝のワイドショーでも夕方のニュース番組でもそんなことを言っていた気がする。完全に聞き流していた。
 「そうなんだ、星、好きなの?」
 「詳しいとかじゃないんだけどね、前に夕日一緒に観たでしょ。あの時間、すごく落ち着いて、よかったなって思ってたから、流星も一緒に観れたら良いなって思ってたの」
 彼女もあの河原での時間を良かったと思っていたことが嬉しかった。スマートフォンを耳に当てながら窓辺へと向かいカーテンを開ける。
 「流星群、窓からも見えるのかな」
 その時、真っ暗な空に光が駆けたのが目に飛び込んだ。何も見えない、何の気配もしない夜空に細い光が一筋。
 「あっ……!今、見えたよ!流れ星!」
 真夜中だと言うことも忘れて私は声を上げていた。
 「本当に?あ、私も今見えた!すごい!」
 その後も、群と言うほど大量ではないものの、流れ星をいくつか夜空の中に見つけ、私と彼女はそれをお互いに早口で報告し合った。
 新しい光の筋が見つからなくなり、流星群も終わりかという雰囲気が漂うと、私と彼女の通話もなんとなくお開きという感じになった。私は、電話を切る前に彼女に何か言いたいことがある気がしてならなかったが、上手く言葉が出てこなかった。私と彼女の間にしばらく沈黙が流れた。
 「じゃあ、明日も学校だし、そろそろ寝ないとだね」
 彼女が切り出した。
 「あのさっ!」
 言いたいことが自分の中で形になっていなかったけれど、気づいたら声が出ていた。思ったよりも大きな声が出てしまい、耳が熱くなる。頭は真っ白になって言葉が出てこない。
電話の向こうの彼女は喋らなかったが、私の次の言葉を待っていてくれているのだということが伝わってきた。
 「あの、私……明日、放課後この前の河原に行こうかな」
 カッターナイフを腕に押し当てたときよりもずっと心臓が大きな音を立てている。でも、嫌なうるささじゃない。
 「私も、私も明日の放課後、行くよ。この前の河原」
 彼女は静かにそれだけ言った。
それから私たちはおやすみとだけ挨拶をして電話を切った。
もう夜も遅い。明日も学校なのだから寝なければ身体が持たない。私はカッターナイフをペン立てに刺し、布団に入り、電気を消す。
真っ暗で、何も見えない。物の輪郭も気配も暗闇に溶けていく。私の輪郭も暗闇に溶けていきそうだ。私の意識も、段々と輪郭を失い、暗闇に溶けていく。何の音もしない、静寂。何の声も聞こえない、静寂。今夜は静かに眠れそうだ。私は静かに、暗闇の中に意識を手放した。